FIREして改めて考えてみる。 自己責任論と原因自分論の違いとは?

FIREについて

自己責任論と原因自分論。
何となく語感の似ている両者ですが、実際の中身は別物です。
ただ、FIREしてから少し両者への考え方が変わって来たように感じています。
まあ、異論反論は沢山あると思いますが…

コロナの影響 

まだ退職する前に、コロナで職を失った人達を支援しているボランティア団体の方と話す機会があって、色々と悲惨なケースを聞きました。

自分はFIREだ何だと言っていますが、医療機関で働いていた為、金銭的にはとても安定して恵まれているのだと実感しました…もう退職してしまいましたけれど。

まだコロナによる影響は大きく、飲食店など大変な思いをしている人も多いと思いますが、それ以外の業種でも多くの方が仕事を失っているようです。

Withコロナとか新しい生活様式とか言われていますが、本当に生活が変わってしまい、現在の状況が当たり前になれば、その中で生活自体が立ち行かず、取り残されたままになる人も出てくるのではないでしょうか?

非正規雇用の女性の立場

ボランティア団体の方の話では、非正規雇用の女性や高齢者ほど、仕事を失うリスクが高いという事でした。

特に単身で子供を育てている女性は、仕事を失うと次の仕事を探すのが、現状ではとても困難になっているのが現実という話でした。

そんな人達に対しての公的な支援はまだまだ弱く、「自己責任という事で放置に近い状態に置かれている」と語気を強めて言っていました。

たしかに、DVで離婚して子育てをしている方の事例などを聞くと、仕事を失っても元夫から逃れる為、個人情報を極力隠しながら仕事探しをしなければならないとか、お気楽な一人暮らしの私には想像を絶するものがあるのでしょう。

自己責任論と原因自分論

一方でYOUTUBEチャンネルの中で「原因自分論」という話をされている方がいます。

かなり有名な方なので「原因自分論」という言葉を聞いた事のある人も多いのではないでしょうか?尤も「原因自分論」自体は、元ゼネラルモーターズ社長の佐藤満さんが提唱したのが最初ではなかったかな?
私も、ちょっとその辺りの知識は曖昧なところがあります。

自己責任」と「原因自分」語感がとても良く似ていますよね。
でも「責任」と「原因」は意味が違いますし、「自己」と「自分」も誰目線なのか?などによって意味が変わってきますので「原因自分論」と「自己責任論」は、自分はまったく別物だと考えています。

あくまでも「自分はこう受け止めた」という事で、両者の本当の考え方は違うのかもしれないと断った上で話をすると・・・

「自己責任論」は、国や政府が、社会保障などの役割について「自己責任」という言葉を免罪符にして、言わば「責任放棄」をしている。
現在貧困で苦しんでいる人の中には、そういった「責任放棄」による「被害者」も多く存在している。そう主張する場合に多く使われているように感じました。
ボランティアの方も、そう言ったニュアンスで話をしていたように思います。

一方で、「原因自分論」は、例えば現在自分が何らかの困難に直面しているとして、その原因を外部に求めて努力する事を忘れていないか?
何々が悪いから」とか「社会が悪いから」と言う前に、まず「自分の置かれている状況を受け止め」その上で「自分に何が出来るのか」考えよう。
そして「学び・行動しよう!」という考えだと自分は理解しました。
(あくまで自分の受け止めなので、本来の意味は違うかも知れません)

両者の考え方に違いはあるのか?

この両論、一見相反する主張のように見えますが、どうなんでしょう?
自分には、根っこの部分は同じ主張のように思えるんです。

ボランティア活動に携わっている方は、コロナに限らず貧困で苦しんでいる方に手を差し伸べ、力になろうと頑張る一方で、国の政策や自治体にも、もっと貧困で喘いでいる人にも目を向けて欲しいと働きかけています。

それはスゴイ活動で、以前の記事で書いたMSWの活動にも通じるものがあるかも知れません。
とても自分には出来ない事で、最前線で携わっている方には、頭が下がる思いです。

ただ「自己責任論」で「国や政府が悪い」「本人に罪は無い!救われてしかるべきだ」と言っているように感じますが、どうなのでしょう?

確かに事例の中には、本人にはどうしようも無い事情で貧困に陥っている事例が数多くありました。
問答無用で派遣切りに遭い、住んでいた寮にも居られなくなった人。
DV夫に居場所がバレる事を恐れながら、コロナ禍の困難の中で仕事を探す女性。
そんな人はセーフティーネット或いは保護の対象になると思います。
日本は「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されている国なんですから。

ですが・・・こんな事を書くと、本当に困っている方からは「お前は恵まれている環境に居るからそんな事が言えるんだ、もっと現実を知れ!」とお叱りを受けると思います。
それでも・・・敢えて書こうと思います。

憲法で保障されているから、全ての人が「救われてしかるべき」なのでしょうか?

確かに政府の政策や対応には、首を傾げたくなる部分があると自分も思います。
でも、一方で「原因自分論」も頭を過ぎるのです。

自分から救いを求めた人たち

ボランティア団体の方との話で触れられていた事例の中には、生活に困窮し、自死する人もいたけれど、その一歩手前で「ボランティア団体の門」を叩き、様々な支援を受けながら生活再建への道を踏み出した人もいるそうです。

そうした人の場合、本当に悲惨な状況から「自分に何が出来るか」を考え「ボランティア団体」の存在を調べて「門を叩く」というアクションを起こした。
これって「原因自分論」に通じる部分があるのではないでしょうか?

結果的に、生活再建に向けての一歩を踏み出せたというのは、勿論「ボランティア団体」の支援が大きいという事はありますが、本人の努力も大きいのではないのかな? と思うのです。 

自分に出来るだろうか?

自分は、一応「正規」で働かせて貰っていましたので、定期的な収入があり、それなりの資産を作っても来れました。
とても恵まれた「甘々な環境」に居たと自覚していますが、そんな私でも、今後いつ生活に困窮する事態に陥るか判りません。

自分がそんな事態に陥ったら、本当に自身でアクションを起こして生活再建が出来るだろうか? と考えてしまうのです。
もしかすると何も出来ず、そのまま野垂れ死ぬか、絶望のあまり自死してしまうような気もします。

そう思っているのなら「ウダウダ言ってないで、自分もボランティア活動に参加して、色々と勉強させて貰えば良いだろう!」と言われても正直言って・・・足が竦んでしまいます。
本当に口先だけの男ですね。T T

冷たい人間かも知れませんが、私は「まず自分の生活を守りたい」のです。
他人の生活を守る活動に関わって行こうと言う勇気が出て来ません。
きっと自分は逆境に弱いと思うので、余計にそう思います。

あくまでも「自分の生活防衛」が第一なんです。その上で「自分で出来る範囲のお手伝い」があるのなら・・・と思うのが精一杯です。

利己的で自己嫌悪に陥りますが、これが自分の本音です。

まとめ

自己責任論と原因自分論、両者は字面こそ似ていますが、まったく別の考え方です。
でも困難に直面した時には、まず自分で考えてアクションを起こす必要があるという点は共通しているかと思うのです。

とは言うものの…国が政策として「自己責任」と言う言葉を使うのはどうなのでしょう?

確かに「それは自己責任の結果だろう! そんな事に税金を使うのか?」と思う事もあります。

ただ、国が「自己責任」という言葉を使う時、その言葉が一人歩きして様々なケースで用いられる事を危惧します。

例えば生活保護に代表されるセーフティーネットの数々が「自己責任」という言葉によって、とても敷居の高い物になってしまわないか? そんな事が心配になってきます。

以前に、自分は「自助」「共助」最後に「公助」という考え方を基本的には支持していると書きました。
それは、まずは何事も自分で頑張ってみる(自助)、一方で社会的な支え合い(共助)の仕組みを作る事も大切、最悪の場合でもセーフティーネット(公助)で生活は保障して貰える。そういう意味で支持をしていました。

しかし、そこで国が「自己責任」という言葉を使い始めると、本来の「自助」「共助」「公助」の仕組み自体が歪みかねないと思うのです。
う~ん…「自己責任論」と「原因自分論」、やはり難しいですね。

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