FIREを目前にして、社畜生活を振り返ってみる(その2)

FIREについて

私の社会人としての生活は、倒産した病院からスタートしました。
かなり苦しい時もありましたが、振り返ってみると、私の人生で一番輝いていた時代だっと思います。

極貧の1年目

倒産直後だった事もあり、最初の1年はまともな給料も出ませんでした。
同窓生に「俺は医師と同じボーナスを貰っているんだぜ!」なんて話をした事もありましたが、何て言う事もない、医師も一般職員も全員が一律3万円のボーナスだったというオチでした。

そんな状態だったので、本当に生活は苦しく、近所の畑に捨ててあった?育ち過ぎて売り物にならないネギなどを貰って食べた事を覚えています。

それでも、確か手取りで8~9万円程度は貰えていたので、経営状況を考えれば、まあ金銭的には恵まれていた方なのかも知れません。

ただ、水道代が払えず、水道が止められた時は本当に焦りました。
水道って、かなり滞納しても止められないんですよね。

電話は最初に止まりましたし、次に電気・ガスも止められました。
けれど、水だけは出ていたので甘く見ていたんですよね。

ある日突然水が出なくなり、水道栓を見てみると針金で固定されていて「この針金を外すと何とか罪で罰せられます」という貼紙が!! いや本当に焦りました。

そんな中でも、何故か実家への仕送りは毎月続けていました。
働いている以上、家に給料の一部を入れるのは当然の事だと、当時の私は思っていましたが、今まで何度も書いて来た通り、両親はそのお金を貯金してくれていて、後に私のFIRE資金の一角を占める事となります。

追い込まれた人のエネルギーはスゴイ!

まあ生活が厳しいと言っても、それは他の職員全体に言える事だった訳で、一人暮らしの私よりも、家庭持ちの方が辛かったと思います。

でも、そんな職員の底辺から這い上がろうとするエネルギーは、ものスゴイ物がありました。

昔「24時間働けますか?」なんてコマーシャルがありましたが、本当にそんな感じの職員が多かったですね(苦笑)

まあ、まともな給料も出ないのに、倒産状態から病院を立て直そうなんて、どう考えたって普通の人間じゃないですよね。

私は始めての社会人で他の病院の事は知らなかったし、回りの人間が皆そんな感じだったので異常さに気づいていませんでしたが、看護師は最高で月20回の夜勤(準夜&深夜)、私はと言えば2日に一度オンコール業務だったので、ほとんど病院の技師休憩室に住んでいるような状態でした。

ちなみに20回以上の夜勤ってどういう事か分かりますか?
休日出勤は当然として、夜勤明けもありません。
日勤深夜・準夜日勤どころか、準深なんて事もありました。
本人は「私を夜の蝶と呼んで~」等とおどけていましたが、相当に辛かった筈です。

更に前に書いた地域の債権者訪問は業務時間外(土日も含む)に行われますので、病院へ出す表面的な残業時間は100時間程度でしたが、実際に働いていた時間は想像も付きません。

でも、全職員がそんな状態なので、次第に感覚が麻痺して逆に楽しくなってくるんですよね。
何というか高校の時の文化祭の前夜が毎日続いているような感じ、分かりますかね?

とにかくもの凄い熱気というか、エネルギーだった事は確かです。

そして起こる不幸の数々

労基法?何それ美味しいの?的な毎日が続いていましたが、その上に連日のように仕事が終わってから、深夜まで「どうすれば現状を打開出来るのか?」を話し合っていました。

私は何故か、就職1年生なのに労働組合の役員をさせられていたので、そういった会議にも参加していたんです。

私にはチンプンカンプンでしたが、病院側と労働組合側、双方に顧問弁護士がついていて、法的な問題点(本当に色々と真っ黒でした)に、どう対応していくのか?や、経営や債務状況の確認(簿記の勉強もさせられて閉口しました)などを話あっていました。

私にはとても理解出来ませんでしたが、言われるままに出席していました。

でも、会議の内容は分からないものの、まるでドラマの出演者の一人になったように勘違いし、困難な状況に酔いしれているような面がありました。

しかし、当然私のような勘違い人間ばかりでもなく、中には不幸な出来事も起こりました。
病院での激務が関係しているのかは不明ですが、突然死で亡くなった人が一人、重度の脳梗塞で寝たきりになってしまった人が一人、そして何よりもショックを受けたのが、私と同期組の新卒薬剤師の自殺未遂でした。
彼女は一命を取り留めましたが、そのまま病院を去る事になりました。

舞い上がってバカ騒ぎをしていた私は、一気に冷や水をかけらたように感じましたし、回りの人間が、全員が自分と同じように思っている訳では無いのだという当たり前の事を、取り返しの付かない状況になって、ようやく気づきました。

迷惑な新人

1年目は本当に何も分からず、周囲の人に迷惑ばかりをかけていました。
世間知らずというのか、常識知らずというか。

1年目の年末年始など、あろう事か実家に帰省するという暴挙を冒してしまい、他部所の職員から指摘を受けて、多いに反省したものです。

どういう事かと言いますと、技師が2人しかいないのに、一人が年末年始に実家に返ってしまったらどうなるか?
当然、もう一人の技師(技師長)が、年末年始5連勤になる訳です。
何故、そんな当たり前の事を気にせずに5日も休んでしまったのか、穴があったら入りたいくらいです。

病院で寝泊りする事に抵抗感の無くなっていた私は、オンコール業務の無い日でも、会議の後など放射線室で寝る事が度々あり、ある日も急患がCT室に運び込まれたところ、CT装置の上で私が寝ていて…何て事もありました。

夜の職員駐車場に、若手職員が集まりバーベキューをして、当時の事務長から大目玉をくらったのも、発案者は私でした。

本当に、今風に言うとDQNという奴ですね~
技師長や事務長を始め、迷惑をかけた多くの方達、今更ですが本当に申し訳ありませんでした。

あれって、病院の再建を支援していた人達からも顰蹙をかってしまい、あやうく病院再建すらも危うくする行為だったなと、今考えると冷や汗が止まりません。

それでも充実していた日々

お金も無く、仕事も大変で、本当に辛い事も多くありました。

仕事で多くの人に迷惑をかけた事、債権者訪問で水をかけられた事。
夜の債権者集会では、反対派の人たちに暗がりに連行され「病院の再建に納得していない人間がいる事も忘れるな!」と、怒られた事もありましたが、そういった事も含めて、良い経験になったと思っています。

私が就職して数年すると、病院と債権者との間で和議が成立し、債務の返済が始まりました。
和解条件は「債権者は債務の8割を放棄する、債務者は2カ月連続で返済が滞ったら土地・建物など資産を競売にかけて返済に充てる」というものでした。

貸したお金が8割もカットされてしまうなんて、銀行などはともかく老後資金からお金を出してくれたりした、地域の人たちにとっては苦渋の条件だった事でしょう。

そんな中で「これ以上賞与も出ないなら病院を辞める」という看護師側と「賞与を出したら返済が滞り、今度こそ債務不履行で病院が競売にかけられる」という病院側との間で板挟みになり、年末からから翌年にかけて、年越し労使交渉をした事も、今となっては良い(?)思い出です。

病院とすれば「ようやく和議が成立し、これからという所での再破綻は有り得ない」し、労働組合側としては十数人の看護師の退職を慰留している所でしたので、こちらも「これだけの数の看護師が辞めたら、いずれにしても医療は継続出来ない」と、双方とも引くに引けない交渉だったので、結果的に年を越すような長丁場の交渉になったのです。

双方とも引けない事情があったにせよ「ここまで来たのだから病院を再建させたい」という思いは共通でした。

この看護師集団退職問題には、裏があった事が後で分かるのですが、その話はまたいずれどこかで。

私がその病院に在籍していたのは、わずか5年半でしたが、もうすぐ還暦になろうという私の人生でも、最も濃密な期間だったと思います。

最初の頃は、その病院を紹介してくれた知人を恨んだ事もありましたが、今なら「大丈夫、きっと良い経験になるから働いてごらん」と言った意味も分かるような気がします。
その知人には、良い病院を紹介してもらえて、とても感謝しています。

病院で働いていた職場の仲間、支えてくれた地域の人たち、労働組合の争議団の人たち、多くの人からエネルギーを貰い、数えきれないほどの学びの機会を得る事が出来ました。
本当に充実した毎日だった事は確かです。

その時の学びが現在に活かされているか?というと、チョット…アレですけれど。

またまた駄文にお付き合い頂いありがとうございました。
でも、やはり文章力がなくダラダラと長くなってしまいまいした。
その3に続きます…m(_ _)m

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