還暦&無職&独身のFIRE生活……自分らしく生きるは幻想だった?

FIREについて

先日読んだ本に興味深い事が書いてあったので、少し紹介してみたいと思います。
全てに共感出来た訳では無いのですが「そんな考え方もあったのか」と、目がウロコが落ちた部分もありました。

自分なんて存在しない?

読んだ本のタイトルは「一人で生きるが当たり前になる社会」という本です。

最近でこそ外へ出かけるようになりましたが、長い引き籠り生活の中で「一人」を常に感じていたオッサンにとっては、とても気になるタイトルの本だったので、つい手に取ってしまいました。

オッサンは引き籠りがちな生活の中で、せっかくFIREしたのだから何者にも束縛されず「自分らしく生きたい」と考えていましたが、この本の中では、そもそも「自分」なんて存在しないという考え方が書いてありました。

「えっ?どういう事?」と考える人もいるかも知れませんが、内容を読んで見ると全てでは無いですが「ああ成程ね~」と納得出来る部分も多かったし、その方が人生楽に生きられるかも知れないと思いました。

他にも冒頭にも書いた通り、「そうそう」と共感出来る部分や、「そういう視点もあるのか」と、目がウロコが落ちるような考え方もあって面白い本でした。

日本は独身国家

日本は良く超高齢化社会に向かっているという事が言われますが、この本では寧ろ高齢者よりも独身者の方が多い「独身国家」となっていると紹介されていました。

確かに若者の未婚率は上がっていますし、一昔前には熟年離婚なんて言葉も流行り、高齢者の孤独死は社会問題として定着している感は有りますよね。

私の引き籠りとはチョット状況が違いますが、50代の引き籠りの子供(?)を年金暮らしの親が面倒を見ている8050問題なんてのも有ったりする現状は、やはり将来的には現在より更に独身者が増えていく「独身国家」へと日本は向かっているのだと実感させられました。

孤独は二種類の孤独がある?

以前に孤独と孤高の違いという事を記事にした事がありますが、この本でも孤独を「選択的孤独」と「排除による孤独」に分類しています。

自ら孤独である事を選んだのか、社会から排除された結果として孤独になってしまったのかという点では、以前に私が書いた記事と共通する部分があると感じました。

私の場合、自ら孤独に生きる事を選択したつもりになっていたけど、結果としては孤独に生きざるを得ない「排除による孤独」を感じている、だからこそ孤高な生き方に憧れるし、その為にも、しっかり「自分らしく生きたい」と考えていました。

そこで「いや「自分らしく」なんて言っても、そもそも「自分」なんて存在しないよ?と言われてしまうと、え……じゃあ孤高に生きるなんて不可能なのでは? と、戸惑ってしまうし、そもそも「自分」が存在しないのなら「選択的孤独」も「排除による孤独」も意味が無いのでは? とも考えてしまいます。

孤独でいる事は悪い事?

「自分」なんて存在しないというと、「個人」「個性」をも否定しているように感じますが、この本では、逆に「個人」という存在を肯定していて、むしろ「孤独に生きる人」を社会がに蔑ろにしている面があるのでは? と提起しています。

私自身も、現在の日本では個人というより家庭(世帯)を持つ事が重視され、人は家庭を持って当たり前、家庭を持ってこそ一人前だという風潮があるように感じています。
そこからあたかも一人でいる事は悪い事という考え方が出ているのではないでしょうか?

例えば結婚出来た人は勝ち組、出来ない人は負け組なんて言われる事もありますよね?

今までの日本は、「家庭もち」が多数派(マジョリティ)で、「ボッチ」が少数派(マイノリティ)だったという事は、サザエさんを筆頭にホームドラマがテレビ番組の主流をしめていた事などにも現れているように思います。

マジョリティVSマイノリティ

日本人は集団への帰属意識が高いと言う事を良く聞きます。
国民性を示す有名なジョークで、沈没する船から避難させる為にどうするか? というのがあります。

アメリカ人には「今海に飛び込めばアナタはヒーローですよ」と言う。
イタリア人には「海に美女が泳いでいますよ」と言う。
ドイツ人には「海に飛び込む事は義務です」と言う。
日本人には「もう皆飛び込んでますよ」と言う

これって、日本人が如何に集団(多数派)への帰属意識が高いかという事を良く表したジョークだと思います。

そして筆者は、今迄の日本は「家庭持ち」が多数派(マジョリティ)で、「独身」は少数派(マイノリティ)だった訳ですが、それが崩れて来ていて、多数派だった「家庭持ち」が少数派へ転落する危機に直面している。

そこでどちらが多数派になるのか? という「家庭持ち」属性VS「ボッチ」属性のせめぎ合いが起きていて、そのせめぎ合いの中から「独身は悪」という攻撃が起きているのではないか?と述べています。

確かにボッチは「生産性が無い」とか「社会への貢献度が低い」という意見は、私も良く耳にする言葉ですね。

個人が共同体と同化しすぎてしまうと?

日本人は多数派への帰属意識が高いと言いましたが、本の筆者も述べていますが、これが国家レベルで行き過ぎてしまうと恐ろしい事になります。

戦前は「お国の為に血を流せ」何て事が平然と言われていたようですし、国家へ物申そうものなら「非国民」として弾圧されたりしたようです。

ナチズム? 全体主義と言うんでしょうか? 何というか民主主義の欠片も無い恐ろしい社会ですが、現在の日本は、少しづつそんな社会へ向かっているように感じられるのはオッサンの杞憂でしょうか?

そんな社会では「ボッチ」でいる事は「非国民」だと言われてしまうのかも知れません。

確かにボッチは少子高齢化の一因となっていると自覚していますし、社会への貢献という面も少ないとも感じていますので「それって国民としてどうなの?」と言う意見に対しては「好きでボッチで居るんだから余計な事は言わないでくれ!」と一蹴する事は難しいです。
う~ん……迫害や弾圧の対象にはなりたくないな~(泣)

SNSが攻撃を助長?

人を攻撃する行為、他人を叩く行為には中毒性があると筆者は述べています。
確かに人間には「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるように、他人を叩くという行為に一定の快感を覚える一面性があるのかも知れません。

更にこの本の筆者はSNSが「叩いても良い人」を見つけるツールとなっているのではないか? と指摘しています。

実際にネットを利用した攻撃(誹謗中傷に限らず、個人情報の流出や晒し行為など)は、時に際限なく人を傷付け、自殺に追い込まれるケースも少なくないと思います。

他人の弱い部分(叩ける材料)が恐ろしい速さで拡散し、一度拡散してしまえば留まる事はありませんし、情報は永続的に残る事になります。
ネットの匿名性が、それらの行為を助長している面もありますし、法的にも未整備な部分も多い印象があります。

便利なSNSですが、「叩ける人」を探すツールとして使われているとしたら悲しい事ですし、ボッチで居る事が「叩ける材料」となってしまう事をオッサンは恐れています。

ボッチという快感

ここまで何だか「ボッチでいる事は悪い事」という感じに書いてしまいましたが、経済的な事情など様々な理由で結婚したくても出来ない人もいると思いますが、これだけ独身(単身)者がいるという事は、自ら望んでボッチを選択している人も少なからずいると思うのです。

それにオッサンのように、一人でいる事が精神的な安定に繋がるというケースもあると思うんですよね。

この本でも「孤食」には癒し効果があると紹介されていましたが、私は「孤独のグルメ」というドラマが好きなのですが、「孤食」という行為がとても魅力的に描かれています
「孤独のグルメ」は色々な動画サービスで見られますので、まだ見ていない人は是非見て欲しいと思います。
ちなみにUーNEXTさんは、31日間の無料トライアルをしていますので、試しに視聴してみてはどうでしょうか?(すいません宣伝です)

最近はご無沙汰していますが、ソロキャンプで焚火を眺めている時間などは、本当に心が癒されているような心地よさを感じます。

職場の人間関係や、家族や友人との関係に疲れた方は、是非ソロキャンプを経験して欲しいと思います。
ソロキャンプには、孤食や焚火など人間関係の煩わしさから解放される要素が詰まっていますから(^^)

例え社会的にマイノリティで、生産性が無いとか貢献度が低いとか言われても、ボッチにはボッチの良さがあるのだと、オッサンは声を大にして言いたいですね。

認知的負荷からの逃避

寄らば大樹という言葉があるように、日本人は多数派に属している事に安心感を持つ国民性を持っていると思います。

更に筆者は、多数派に属している安心感は物事を深く考える(認知的負荷)を避ける事に繋がるとも書いています。

人は認知的負荷の小さい物を好む傾向があるそうで、例えば複雑な旨味を持つ上質な料理よりも、分かりやすい味のジャンクフードが好まれ、アイドルなども平均化された容姿の方が支持され、変わらない事・見知っている事に安心感を覚えるとか。

一方で新奇探索(新しい物を見つける・チャレンジする)も存在するが、10代20代にその傾向が強いそうなので、オッサンの年齢層だと保守的な(変わらない事に安心感を覚える)人が多いという事でしょうか?

個人的には認知的な負荷を避け続ける事は認知症の発症リスクが高くなると思っているので、新奇探索の気持ちは持ち続けたいと思うのですが、正直最近は厳しくなっているなと感じています。

一人で生きる

最初に人には「自分」なんて存在しないと書きましたが、それは決して「個性の否定」では無いそうで、むしろ「特定の自分」がいるのではなく「自分の中に多数の自分がいる」或いは「一つでは無く複数の自分がモザイク状に存在する」という事のようです。

確かに「自分はこういう人間だ!」と言い切れる人って、どれだけいるのでしょう?

「コミュ症で引き籠り」も「登山やキャンプなどアウトドアが好き」も「機械音痴」も「パソコンでアレコレしたい」のも全てがオッサンで、どれかが偽物という訳では無いですし、どれか一つを選ばなければいけない訳でも無いですね。

良く「自分探し」をしている人は「一生自分を見つけられない」と言いますが、探すまでもなく次々に新しい自分と出会っていると言う事ですよね。

筆者も、自分の中に多数の自分がいると考える人の方が豊かに感じると書いていますが、私も全ての自分を受け入れた方が気持ち的に楽だと思います。

ボッチでいる時は、時にネガティブなスパイラルに陥る事もありますが、それも含めて自分くらいは自分を肯定してあげたい。

どんな自分も受け入れた上で、一人で生きていく事を選択したいと思っています。

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