先日、母の一回忌の法要を行いました。
例によって私と母二人だけの法要。
寂しがり屋の母は、もっと大勢の人に集まって欲しかったのかな?
今日は、少し母との思い出を書いてみたいと思います。
少女のようだった母
大人とは思えないほど、喜怒哀楽の表現がハッキリした人で、時に少女のような幼さを見せる人でした。
寂しがり屋で、父が亡くなる直前、父に縋りついて「まだお別れしたくない」と泣きじゃくっている姿は忘れられません。
私が子供の頃、病院併設の療養学校に入る際も、私を学校の寮へ送った帰りの車の中で、ずっと泣き通しだったと、生前の父から聞きました。
嬉しい時、悲しい時、本当に表情豊かな人でした。
とても綺麗好きな母
かなり家事は壊滅的で、特に料理はほぼ父が行っていましたが、掃除に関してはマメな人でした。
特に定年を迎えてからは、毎日朝から晩まで掃除をしていました。
朝起きると家中の掃き掃除からモップかけ、昼間は庭の草むしりと山野草などの水やり、夜も台所や浴室の拭き掃除、それこそ一日中何かしら掃除をしていたんじゃないかな?
父も「この家がいつまでも新築のような状態なのは母さんのおかげだな」と言い「お前の代になったら、あっと言う間に家が痛むだろうな」とも言われました。
父よ、貴方は正しかった。
貴方の死後わずか十年で、我が家は幽霊屋敷の様相を呈していますm(_ _)m
母の金銭管理
母の金銭管理は独特で、私には理解しがたいものでした。
例えば、買い物のレシートなどは、ずっと取って置くのですが、何故か家計簿は付けないんですよね?
基本的にカードを使わず、現金で買い物をしていましたが、毎月溜まるレシートを、月毎に束ねて取って置くのです、それも何年分も。
一度、段ボールいっぱいに溜まったレシートを見て「家計簿とか付けないなら、レシートを取って置いても意味無いし、ゴミが増えるだけだから捨てたら?」と言ったら、エライ剣幕で怒られました(^^;
私も心無い言葉だったと反省しています。
でも、我が家の家計を支えていたのは、間違いなく母でしたね。
どうやって家計管理をしていたのか、未だに謎なのですけど…
アクティブな母
とにかく出かける事が好きな人でしたね~
私が子供の頃は、毎年一度は家族旅行に行きましたし、父が病気がちになり外出が出来なくなると、友人を誘って全国、時には海外へも旅行に行っていました。
母の定年のお祝いで、カナダ旅行をプレゼントした事もあったのですが、夜の町で母が行方不明になり、観光客は入ってはいけないと言われていたエリアをビクビクしながら探し回ったなんて事もありました。
もっとも、私が探しに出た直後に母はグループに戻っていて、私が逆に捜索される事になってしまい、ガイドさんにこっぴどく怒られてしまいましたが(^^;
登山も好きで、富士山も含め結構な数の山に登っていたんじゃないかな?
日本百名山とは言いませんが、全国に山登りに出かけて行ってました。
私の山好き、キャンプ好きも、母の影響があるのかも知れません。
父が亡くなった後、家に引き籠りがちになってしまった母に、近所の山に一緒に登りに行こうと誘ったのですが、それが実現出来なかったのは、かなり心残りではありますね。
標高は低いのですが、山頂からの眺望が絶景なので、一緒に見てみたかったな~
父とのケンカ
知人からはオシドリ夫婦と言われ、私の目から見ても仲の良い夫婦でしたが、時にはケンカをする事もありました。
私が小学生の頃だったと思いますが、私が家に入ろうとした時に、玄関から父が飛び出してきて、後を追うように色々な物が飛んできました。
茶碗などの食器類はもちろん、ハサミや包丁などの刃物まで飛んできました。
子供の頃なので、記憶違いがあるかも知れませんが、炊飯器まで飛んできたように記憶しています。
原因は父がお金を家に入れなかった事。
父の仕事は、言ってみればボランティア的な部分が多く、収入が不定期でした。
父曰く、年間トータルではキチンと生活費は入れていると言っていましたが、何カ月も収入がなく、突然数カ月分の給料?を持ってくるといった感じだったので、家計をやり繰りする母にしてみれば、堪忍袋の緒が切れると言った所だったのでしょう。
母は看護師をしていたので、定期的な収入があっただけに、そんな父の働き方が許せなかったのかも知れません。
ですが一方で、父の仕事の一番の理解者もまた母だった事は間違いありません。
母が父を尊敬していたのは、父が亡くなる時の「まだ教えて欲しい事が一杯残っているのに!」という言葉からも確かだと思います。
母の異変
定年後の母の生活スタイルは、ちょっと独特で、父から何度注意されても治りませんでした。
と言うのは、母は夕食後に居間で寝てしまう事が多く、いくら父が寝るなら布団で寝ろ!と言っても、全く動こうとしません。
そして、何故か夜の11時頃に起き出しては、部屋の片づけやら趣味の切り絵やらを始めるんです。
当然朝は起きられる筈もなく、朝食は父と二人で食べる事がほとんどでした。
「そんな生活をしていると、絶対に早くボケるゾ!」というのが、私と父の口癖のようになっていました。そして、その心配は現実の物となります。
そんな生活習慣が認知症の原因というよりも、頑なにそんな習慣を改めようとしなかった時には、既に認知症を発症していたのかも知れません。
その後、干した洗濯物を取り込まないとか、何度も同じ場所を掃除し続けるとか、大量の植木鉢を買っては放置するといった奇行が徐々に進み、私と父も「最近の母さんは、少し変じゃないか?」と話合うようになりました。
認知症の進行と介護
父が亡くなると、認知症の進行は一気に加速し、家事の一切が出来なくなりました。
何度も職場に電話を掛けてくるようになり、家を出ては帰りが分からなくなり、近所の人に保護された事も。
今思えば、徘徊が始まっていたのだと思います。
やがて、片時も目が話せなくなり、当直やオンコール業務のある私の仕事にも支障が出てきました。
介護認定を受け、介護サービスを受け始めたものの、自分が認知症であるとの自覚の無い母は、デイサービスやショートステイなどの利用を拒否し続け、急激に症状が進行し、私たち母子の生活は徐々に破綻していきました。
その辺りの事は、以前にも書きましたが、介護していた当時は本当に大変で、一時は無理心中を図ろうと、寝ている母の首に手をかけた事すらありました。
けれど亡くなった後に思う事は、もっとこうして上げれば良かったかな? こんな事も出来たんじゃないかな?という後悔ばかりです。
ありがとうの言葉
一回忌の法要を終えて、お墓参りも済ませてきました。
家に帰って仏壇の前に座っても、やはり出てくる言葉は「ごめんなさい」
本当は「ありがとう」と言うべきなのかも知れませんが、施設に入所中の母の「私はこんな所で一生を過ごすの?」「家に帰りたい」という言葉と、さめざめと泣く姿が忘れられず、どうしても「ゴメン」という言葉になってしまいます。
振り返ってみれば、母は私に沢山の愛情を注いでくれました。
でも生前は、そんな母の愛情を当然のように享受しながら、感謝の言葉一つ言った記憶がありません。
人として何かが欠落しているのでしょうね。
だから、現在ボッチでいるのかな?
本当に今更ですし、この後に及んでも口に出しては言えないけれど、せめて文字で伝えたいと思います。
「母さん、こんな自分を愛してくれて、本当にありがとう」
どうか天国に届く事を祈って。
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