ボッチはFIREの為の最強のツールだとオッサンは思うのです。

FIREについて

オッサンは気が付いたらFIREの条件を達成していました。
そんなオッサンはボッチな生活をしています。
でも、考えてみるとFIREを達成する為には、私の場合はボッチである事が必要条件だったのかもと思うのです。
見方を返れば、ボッチというのはFIREの為の最強ツールになり得るのではないかと。

子供がいないので養育費がかからない

まず、子供がいないという事は、養育にかかる費用が発生しません。
一説によると、子供が生まれて大学を卒業させるまでに、一人約3000万円かかるとも言われています。
例えば、子供が私立の高校に通い、東京でアパートを借りて私立大学に通う場合。
私の職場では、月に10万円以上の仕送りをしているという人がいました。
二人の子供が居たという事ですから、大学4年間だけで、単純計算で960万円の費用が掛かったという事になります。

もちろん、公立なのか私立なのか、家から通うか下宿するのか、仕送りはどの程度するのか、様々な条件がありますので、一概には言えないと思いますが、大きな費用がかかるのは間違いないですよね。
これが、子供が生まれてから成人して独り立ちするまでと考えると、3000万円というのも、あり得る話かも知れません。
もし子供が、いつまでも働かずニートになってしまったら……(汗)
もちろん、子供の存在はお金に換算する事なんて出来ないものだと思いますし、子供にかける愛情は本当にプライスレスなのだと思います。

その一方で、私の場合は子供がいたら、とても現在の資金は準備出来なかったと思うのです。

パートナーとの意見の相違

FIREするには、どう生活するのか?という事も重要な要素になってきます。
パートナーとの価値観の相違などが問題になってくると、とても厄介です。
私の場合はボッチでしたので、自分が必要ないと思う物やサービスは購入しない、或いは契約を解除するという事を自由に決められましたが、パートナーがいる場合にはそうはいきませんよね。

自分では必要無いと思っても、パートナーは必要と感じている場合だって勿論あります。
それを独断で処分したら、とんでもないトラブルになります。
そうした物やサービスについての価値観を家族全員で共有するというのは、かなり大変なのではないでしょうか?
仮に、FIREする事が家族全員の共通目標になり「その為に必要な我慢なんだ!」と、なったとしても。「我慢」というのは、徐々に生活を疲弊させていくと思います。

ボッチだから節約を楽しめた

ボッチな人生を歩む人は、生活する上で誰かと価値観を共有する必要がありません。
私は、当初はFIREなどという目標は持っていませんでしたが、節約や資産運用に関しては、それなりに楽しんでいました。
もちろん、苦しいと思った事もありましたが、その時期も現在の生活を楽しむ為の糧となっています。

しかし、いくら自分が楽しくても、それを他の誰かに強要する訳にはいきません。
過去の離婚は別の要因があったのですが、仮にその危機を乗り越えられていたとしても、いずれは破綻する運命だったのかも知れませんね。

親の介護

これは、ボッチの宿命と言えます。
当たり前の話ですが、他の誰にも頼む事は出来ません。
認知症を患った母との日々は、楽しかった思い出もありますし、申し訳なさで心が痛くなる事もありました。
一度ならず「いっそ無理心中を…」なんて事を考えた事もあるくらいでした。
夜間に暴れる母を連れて、オンコール業務に向かった日々は、本当に地獄のようでした。
母にとっても辛い毎日だったのだと思います。
でも、そんな日々もいつか終わります。
後悔ばかりの介護生活でしたが、私は二人の両親を見送る事が出来ました。

もちろん寂しさはありますし、割り切れない思いを今も抱えています。
しかし、両親の死が、自分に残された時間について考える切っ掛けになった事だけは間違いありません。
FIREという言葉に魅せられたのも、そんな思いとピタリと嵌まったからなのだと思います。
ちなみに、介護保険の自己負担比率が1割負担から2割負担になっていたら、この場合もFIREに必要な資金は貯められなかったと思います。
ただし、介護が必要になった親を誰が面倒みるのか?と、親族で争うような事が無かった事は、ボッチで良かったと、知人の話などから感じています。

FIREはヒルクライム?

自転車のヒルクライムレースというのをご存じでしょうか?
最近だと自転車の漫画なども見かけますが、ロードレースと違って一般のヒルクライムレースは完全に個人競技です。
もちろんチームで出場する事もありますが、ほとんどの人は個人参加です。
FIREというのは、このヒルクライムレースに通じるものがあるように私は感じています。

ヒルクライムとは、文字通り山道をひたすら自転車で登る競技です。
ヒルクライムは、山頂を目指すコーナーを一つ抜ける毎に、この先には平坦な道があるかも?という希望と、やっぱり登りが続くだけだった!という落胆を繰り返すうち、次第に辛さ自体が楽しくなってくる競技です。
でも、山頂に着いた時の解放感は、苦しかった分だけメチャクチャ大きいです。
FIREも同じように、このコーナーの先にきっと良い事が…と思っても、次の課題が見えただけだったり、少し平たん路に入ってホッと一息ついていると、昨年のコロナ不況のように資産が暴落したり、人生をかけてヒルクライムしているように思う部分があります。
その行為自体を楽しめるかどうかが、FIREを達成するか挫折するかの別れ目なのかな?と個人的には考えています。

美ヶ原ヒルクライムの思い出

幾つかのヒルクライムレースに参加しましたが、個人的には美ヶ原ヒルクライムが、一番思い出が深いです。
スタートして間もなく「オイオイ、これ自転車で登る道じゃなだろう?」「道というより階段では?」というような激坂が始まり、途中ほんの少し平坦路はあるものの、すぐに地獄の上り坂が続きます。
そして苦労して森を抜け、視界が開けた瞬間にゴールが見えるのですが、そこまで一直線の下り坂なんです!
坂を下った先にゴールが見える! もうテンション爆上がりです!

「ゴールだぜ!ヤッホー!」と、調子に乗って全力でスパートすると、最後に待っているラスト数十メートルの短い登坂で失速するという、地獄の落とし穴が待っているのですが(^^;
そんな苦しさと、それを楽しむ感覚と、登り切った解放感と、そんな部分がヒルクライムとFIREへの道の共通点ではないか?と思うのです。
でも、美ヶ原のレースを思い返せば、FIREの条件を達成したぞ!と思っている今の状況は、坂を上り切ってゴールが見えたと思った瞬間と似ている気もします。
喜び勇んでスパートすると、最後の最後で落とし穴が待っていると考えた方が良いのかも知れませんね。

FIREは個人競技?

たしかに、個人戦の方が有利な面があるのかも知れません。
私の場合は、収入と支出のバランスから考えて、ボッチでなければFIREの条件を満たす事は不可能だったと断言できます。
では家族がいると不利なのか?
個人的には金銭面では不利だと思いますが、やはり家族の存在は精神的な支えという意味ではボッチよりも強いと思います。もっとも、家族(或いは夫婦)関係が良好ならばという注釈が付きますが。

FIREは個人競技なのか? 団体戦なのか?
あり来たりな表現ですが、やはりその人の環境や価値観によって変わってくるものだと思います。
金銭的には不利だと思うと書きましたが、「一人口は食えぬが二人口は食える」なんて言葉もありますから、一概には言えないかも知れないですね。

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